アイザック・ニュートンは、17世紀フランスの数学者でありながら、職業は法律家という異色の天才です。
数学を趣味として研究しながらも、解析幾何学、数論、確率論など、後世に多大な影響を与える数々の業績を残しました。
今回は『天才物理学者ニュートンの生涯と功績』について紹介します。
彼が功績を残した分野から、発表されている重大な定理まで、歴史やエピソードと共に詳しく紹介をしていきます。
1. ニュートンの生涯と背景

アイザック・ニュートン(1642–1727)は、イギリスの物理学者・数学者であり、近代科学の基礎を築いた人物です。
彼は1665〜1666年の「驚異の年」に万有引力の法則や微積分の基本概念を確立しました。また、運動の三法則を提唱し、これを基に1687年に発表した『プリンキピア』は、物理学史上最も重要な書物の一つとされています。
ニュートンは光学の研究にも貢献し、プリズムを用いた実験で白色光が複数の色に分解されることを示しました。さらに、色収差の問題を解決するために反射望遠鏡を発明しました。数学では、ライプニッツとは別に微積分を発明しましたが、両者の間で優先権をめぐる論争が起こりました。
晩年は王立協会の会長やイギリス造幣局の長官を務め、貨幣改革にも貢献しました。ニュートンの理論は19世紀まで科学の基盤となり、後のアインシュタインの相対性理論にも影響を与えました。彼の業績は物理学・数学・天文学の発展に不可欠なものであり、現代科学の礎を築きました。
<ニュートンに関する年表>
1642年:12月25日(ユリウス暦)、イングランドのウールスソープで誕生。父は彼が生まれる前に死去。
1655年頃:グランサムの学校に通い、数学や科学に興味を持ち始める。
1661年:ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジに入学。アリストテレス哲学を学ぶが、ガリレオやデカルトの影響を受ける。
1665〜1666年:「驚異の年」と呼ばれる時期に、万有引力の着想、微積分の基本概念、運動の法則、光の研究を進める。
1669年:ルーカス教授職(数学教授)に就任。
1672年:王立協会に入会し、光学に関する論文を発表。反射望遠鏡を発明。
1687年:『プリンキピア』を発表。運動の三法則と万有引力の法則を体系化。
1696年:イギリス造幣局の長官に就任。貨幣改革に尽力。
1703年:王立協会の会長に就任。
1705年:「サー」の称号を授与される(ニュートン卿)。
1727年:3月20日、ロンドンで死去。ウェストミンスター寺院に埋葬される。
1.1. 幼少期と教育
アイザック・ニュートンは、1642年12月25日(ユリウス暦)にイングランドのウールスソープで生まれました。
彼の父はニュートンが誕生する前に亡くなり、母は再婚しましたが、義理の父との関係は良好ではありませんでした。幼少期は病弱でしたが、学業には非常に優れていました。
1661年にケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジに入学し、当時の主流であったアリストテレス哲学を学びました。
しかし、次第にガリレオ・ガリレイ、ヨハネス・ケプラー、ルネ・デカルトといった近代的な自然哲学の影響を受けるようになりました。
1.2. 「驚異の年」1665–1666年
1665年にロンドンでペストが大流行し、ケンブリッジ大学が閉鎖されたため、ニュートンは故郷のウールスソープに戻ることになりました。この期間に、彼は後に科学史に残るいくつかの重要な発見をしました。
まず、万有引力の法則の着想を得たとされています。リンゴが木から落ちる様子を見て、この法則を考えるようになったという逸話が伝えられています。
また、この時期に微積分の基本的な考え方を確立し、数学の発展に大きく貢献しました。
さらに、光の分解に関する研究を行い、後に光学の分野でも重要な業績を残すことになりました。そして、運動の三法則の基本的な概念を考案し、これが後に『プリンキピア』で体系化されることになりました。
1.3. ケンブリッジ復帰と学問的成功
1667年にケンブリッジ大学に復帰し、1669年には数学教授(ルーカス教授職)に就任しました。
その後、1672年には王立協会に光学に関する論文を投稿し、反射望遠鏡の開発を発表しました。この業績により、ニュートンは科学界で広く認められる存在となりました。
1.4. 科学的論争と晩年
1670年代後半には、微積分の発明をめぐってゴットフリート・ライプニッツと激しい論争を繰り広げました。この論争は、ニュートンとライプニッツのどちらが先に微積分を発見したのかという問題をめぐるものであり、科学界を二分する事態となりました。
1687年には、運動の三法則と万有引力の法則をまとめた『プリンキピア(自然哲学の数学的諸原理)』を発表し、物理学の基礎を確立しました。晩年は王立協会の会長やイギリス造幣局の長官を務め、貨幣改革にも貢献しました。1727年にロンドンで亡くなり、ウェストミンスター寺院に埋葬されました。
まとめ
ニュートンは幼少期から並外れた才能を発揮し、ケンブリッジ大学での学問に没頭することで、数学や物理学の基礎を築きました。1665年から1666年にかけての「驚異の年」に多くの重要な発見を行い、それらが後の科学の発展に大きく貢献することになりました。ケンブリッジ大学に復帰した後も数学や物理学の研究を続け、後に『プリンキピア』を発表することで、彼の理論を体系化していきました。
2. ニュートンの主な業績

ニュートンの業績は、物理学、数学、天文学、光学など幅広い分野にわたります。特に『プリンキピア』にまとめられた力学の理論、万有引力の法則、微積分の発明、光学の研究は、科学の歴史において極めて重要なものです。以下では、それぞれの業績について詳しく説明します。
2.1. 力学と天文学
ニュートンの力学の理論は、後に「ニュートン力学」として知られるようになり、19世紀末まで物理学の標準理論として広く受け入れられました。彼は物体の運動に関する基本法則を三つにまとめ、さらに天体の運動を説明するために万有引力の法則を提唱しました。
2.1.1. 運動の三法則
ニュートンは、物体の運動を支配する三つの基本法則を『プリンキピア』の中で述べました。
第一法則(慣性の法則)
物体は外力が作用しない限り、その運動状態を維持します。つまり、静止している物体は静止を続け、運動している物体は等速直線運動を続けます。この法則は、ガリレオ・ガリレイの慣性の概念を発展させたものです。
第二法則(運動方程式)
物体に加えられる力 F は、その物体の質量 m と加速度 a に比例し、次の式で表されます。
「F = ma」
この法則は、物体の運動を数学的に記述するための基本的な関係式であり、現代の力学においても広く用いられています。
第三法則(作用・反作用の法則)
すべての作用には、それに対する大きさが等しく方向が逆の反作用が存在します。例えば、物体が地面を押すと、地面も同じ力で物体を押し返します。この法則は、ロケットの推進や歩行の原理など、多くの物理現象を説明するのに役立ちます。
2.1.2. 万有引力の法則
ニュートンは、リンゴが地面に落ちる現象と月が地球を回る運動の間に共通する法則があると考え、万有引力の法則を導きました。この法則によれば、すべての物体は互いに引き合う力を持ち、その力の大きさは質量に比例し、距離の二乗に反比例します。
F = G × (m1 × m2) / r²
ここで、G は万有引力定数、m1 と m2 は二つの物体の質量、r は物体間の距離です。この法則により、ケプラーの惑星運動の法則を数学的に説明することが可能となり、太陽系の天体の運動を理解するための基礎が築かれました。
2.2. 微積分学の発明
ニュートンは、物理学の問題を解決するために微積分を発明しました。彼は特に物体の運動に関する問題を考える際に、速度や加速度を解析する必要があり、これを数学的に扱うための新しい方法を開発しました。
2.2.1. 微分の概念
微分は、関数の変化率を求めるものであり、瞬間的な変化を記述するのに用いられます。例えば、物体の速度を求めるには、位置の時間に対する微分を計算します。
v = dx / dt
ここで、v は速度、x は位置、t は時間です。
また、加速度は速度の時間に対する変化率として定義されます。
a = dv / dt = d²x / dt²
2.2.2. 積分の概念
積分は、ある範囲内の関数の和を求めるものであり、物理的には距離や面積の計算に利用されます。例えば、速度から位置を求める場合には積分を用います。
x = ∫ v dt
ニュートンは微積分を「流率法(Fluxions)」という独自の名称で表現しました。一方、同時期にゴットフリート・ライプニッツも微積分を独立に発明し、異なる記法を用いました。このため、ニュートンとライプニッツの間で微積分の発明者をめぐる論争が起こりました。
2.3. 光学研究
ニュートンは、光の性質についても多くの研究を行い、光学の分野で重要な発見をしました。
2.3.1. プリズムによる光の分解
ニュートンは、太陽光をプリズムに通す実験を行い、白色光が七色の光に分解されることを発見しました。これにより、白色光は単一の色ではなく、複数の波長の光が混ざったものであることが明らかになりました。
この発見によって、光に関する当時の概念が大きく変わり、ニュートンは光の本質について新たな理解をもたらしました。
2.3.2. 光の粒子説
ニュートンは、光が非常に小さな粒子(コーパスキュル、つまり光の粒子)でできているという「光の粒子説」を提唱しました。この説は、後にクリスチャン・ホイヘンスの波動説と対立することになります。19世紀に入り、トーマス・ヤングの干渉実験によって光の波動性が支持されるようになりましたが、20世紀に入ると量子力学の発展により、光は粒子と波の両方の性質を持つことが明らかになりました。
2.3.3. 反射望遠鏡の発明
ニュートンは、当時の屈折望遠鏡の問題点であった色収差を解決するために、反射望遠鏡を発明しました。この望遠鏡は、鏡を用いて光を集める構造を持ち、屈折望遠鏡に比べてより鮮明な像を得ることができます。ニュートンが開発したこの望遠鏡は、現在でも天文学の分野で広く使われています。
ニュートンの業績は、現代科学の基礎を築いたものであり、その影響は計り知れません。運動の三法則と万有引力の法則により、物理学の体系が確立され、微積分の発明によって数学の新たな分野が開かれました。また、光学の研究によって、光の本質に関する理解が深まり、反射望遠鏡の発明は天文学の発展に貢献しました。彼の理論は、科学の歴史において最も重要なものの一つであり、今日の技術や理論の基礎となっています。
3. ニュートンが与えた影響

ニュートンの業績は、物理学、数学、天文学、光学など幅広い分野にわたりますが、その影響は単なる学問の枠を超え、科学全体の発展に大きく貢献しました。
彼の理論は、19世紀まで物理学の標準的な理論として用いられ、20世紀以降の新しい科学理論の基礎ともなっています。また、科学的方法の確立にも重要な役割を果たし、後世の科学者たちに多大な影響を与えました。
3.1. 物理学と数学への影響
3.1.1. 古典力学の確立
ニュートンの運動の三法則と万有引力の法則は、古典力学として体系化され、19世紀までの物理学の中心的な理論となりました。これらの法則により、物体の運動や惑星の軌道、振り子の運動など、多くの物理現象を数学的に正確に記述できるようになりました。
また、ニュートン力学は、工学や天文学、航海術などの分野にも応用され、人類の技術発展に大きく貢献しました。例えば、宇宙探査では、惑星間の航行においてニュートンの運動方程式や万有引力の法則が利用されています。
3.1.2. 微積分の発展
ニュートンが発明した微積分は、現代数学の基礎となる重要な分野です。物理学では、速度や加速度の計算、力学の解析、波動や電磁気学の理論などに広く用いられています。さらに、微積分は工学、経済学、生物学などの分野でも応用され、複雑な問題を解決するための強力な数学的手法として発展しました。
ライプニッツも独自に微積分を発明し、彼の記法は現在広く使われていますが、ニュートンの「流率法」は物理学の分野で特に重要な役割を果たしました。
3.2. 科学的方法の確立
ニュートンの研究は、単に物理学の発展にとどまらず、科学的思考そのものにも大きな影響を与えました。彼の方法論は、観察と数学的分析を組み合わせ、実験と理論の両方を重視するものであり、現代の科学的手法の基礎となりました。
3.2.1. 数学的表現による科学の発展
ニュートンは、自然界の現象を数学的に表現することに重点を置きました。それまでの自然哲学では、言葉による説明が主流でしたが、ニュートンは数式を用いることで、物理現象を定量的に理解する方法を確立しました。これにより、科学はより厳密で予測可能な学問となりました。
3.2.2. 実験と理論の融合
ニュートンは、自らの理論を実験によって検証することを重視しました。例えば、光の分解実験では、プリズムを用いて白色光が七色の光に分かれることを示し、光の性質を数学的に説明しました。このような実験と理論の組み合わせは、後の科学研究の基本的な手法となり、今日の科学の発展に大きく寄与しています。
3.3. 哲学や宗教への影響
3.3.1. 近代哲学への影響
ニュートンの科学的手法は、哲学にも大きな影響を与えました。例えば、18世紀の哲学者ジョン・ロックは、ニュートンの経験主義的な方法論に影響を受け、人間の認識がどのように形成されるかを考察しました。また、フランスの啓蒙思想家たちは、ニュートンの理論を「理性による世界の理解」の模範とみなし、科学的思考を社会や政治の問題にも応用しようとしました。
ニュートンの物理学は、すべての自然現象が数学的な法則に従うことを示したため、宇宙が合理的に説明できるという考え方を広めました。これは、神の存在を信じる思想と調和するものでもありましたが、一方で、伝統的な宗教観に対して新たな疑問を投げかけることにもなりました。
3.3.2. 宗教との関係
ニュートン自身は非常に信仰心の厚い人物であり、神の存在を強く信じていました。彼は科学と宗教の調和を求め、宇宙の法則は神によって定められたものだと考えていました。実際、彼は神学にも深い関心を持ち、聖書の解釈に関する著作も残しています。
ニュートンは、宇宙が機械的な法則によって動いていることを示しましたが、同時に、その秩序が偶然ではなく、神の意志によるものであると考えていました。この考え方は、「時計仕掛けの宇宙」として知られ、後に18世紀の自然神論(デイズム)に影響を与えました。
3.4. 産業革命と技術への影響
ニュートンの理論は、産業革命の技術革新にも貢献しました。ニュートン力学の発展により、エンジニアリングや機械工学が発展し、蒸気機関や橋梁設計、鉄道の発展など、多くの技術革新が実現しました。
例えば、ジェームズ・ワットが改良した蒸気機関は、ニュートンの力学の法則を基に効率的に設計されました。また、天文学の発展により、より正確な航海技術が開発され、地図作成や海運業の発展にも寄与しました。
ニュートンの法則を応用した工学技術は、現代の自動車、航空機、宇宙開発にも広く使われています。例えば、宇宙探査では、ニュートンの運動方程式と万有引力の法則を用いて、ロケットの軌道計算が行われています。
まとめ
ニュートンの業績は、物理学や数学の発展だけでなく、科学的方法の確立や哲学、宗教、技術の進歩にも大きな影響を与えました。彼の理論は、19世紀までの科学の基盤を築き、20世紀以降の相対性理論や量子力学の発展にも重要な影響を与えました。また、産業革命や現代技術の発展にも貢献し、今日の科学や工学の基礎となっています。ニュートンの研究がなければ、私たちが現在享受している多くの技術や知識は存在しなかったかもしれません。
4. ニュートンの性格と逸話

アイザック・ニュートンは、科学史において最も偉大な人物の一人とされていますが、彼の性格は独特であり、非常に複雑な一面を持っていました。一般的に、彼は内向的で秘密主義的な人物であり、対人関係においても多くの困難を抱えていたとされています。一方で、科学的探究に対しては異常なまでの集中力を発揮し、その姿勢は研究の成果にも大きく影響を与えました。ここでは、ニュートンの性格や逸話について詳しく紹介します。
4.1. 秘密主義と対人関係の困難
ニュートンは極めて秘密主義的な性格でした。彼は研究成果をすぐには公表せず、長年にわたって自身の発見を隠し続けることがありました。その理由の一つは、批判を受けることを極端に恐れていたためだと考えられています。
例えば、彼が微積分を発明したのは1665年から1666年の「驚異の年」の時期ですが、その成果を公表したのは何年も後のことでした。その間に、ゴットフリート・ライプニッツが独立に微積分を発明し、結果として二人の間で激しい論争が発生しました。もしニュートンが早く発表していれば、この論争は避けられた可能性があります。
また、ニュートンは学者との衝突が多く、王立協会での活動においても、同僚との意見の対立が絶えませんでした。彼は自分の業績に対する批判に非常に敏感であり、一度敵とみなした相手には容赦なく攻撃する傾向がありました。
4.2. 科学論争と敵対関係
4.2.1. ライプニッツとの微積分論争
ニュートンとライプニッツは、それぞれ独立に微積分を発明しましたが、どちらが先に発見したのかをめぐって論争が勃発しました。ニュートン派とライプニッツ派の間で激しい対立が続き、最終的に王立協会がニュートンに有利な裁定を下しました。しかし、この裁定はニュートン自身が影響力を行使して決めたものであり、ライプニッツにとっては不公平なものでした。
ライプニッツはこの論争によって大きく名誉を傷つけられ、晩年は不遇のまま亡くなりました。一方のニュートンも、論争の中でますます孤立し、科学界における人間関係の悪化を招きました。
4.2.2. フックとの光学論争
ニュートンは、光の性質に関する研究を行い、光が粒子のような性質を持つという「光の粒子説」を提唱しました。しかし、王立協会のロバート・フックはこの説に強く反対し、光は波として伝わるという「波動説」を支持しました。
フックは科学界でも影響力のある人物であり、ニュートンの理論に厳しく批判的な態度を取りました。これに対して、ニュートンは強い敵意を抱き、しばらくの間研究の発表を控えるようになりました。フックが亡くなった後、ニュートンはようやく王立協会の会長となり、彼の影響が消えたことを機に、光学の研究をまとめた『光学(Opticks)』を発表しました。
4.3. 独創的な研究と驚異的な集中力
ニュートンは極めて集中力の高い人物であり、一度研究に没頭すると周囲のことを全く気にしなくなるほどでした。彼はしばしば研究に夢中になるあまり、食事を取るのを忘れたり、夜通し計算を続けたりすることがありました。
ある逸話によると、ニュートンは化学の実験中にランプの炎がどのように目に映るのかを確かめるため、自分の目に針を突き刺して観察したといわれています。また、数学の問題を解く際には、何時間も椅子に座ったまま動かないこともあったそうです。
このような異常な集中力が、彼の多くの革新的な発見を支えた一方で、彼の性格をさらに孤立させる要因にもなっていました。
4.4. 神学や錬金術への関心
ニュートンは、科学者としての側面だけでなく、神学や錬金術にも深い関心を持っていました。彼は聖書の解釈を独自に行い、神が世界をどのように創造したのかを理解しようとしました。また、宇宙の法則を数学的に解明することは、神の意志を知る手がかりになると考えていました。
さらに、彼は錬金術の研究にも没頭していました。錬金術は当時まだ科学と魔術の中間のような位置にあり、物質の変換や不老不死の探求が行われていました。ニュートンは膨大な時間を錬金術の研究に費やし、多くの錬金術書を執筆しましたが、最終的に大きな成果を得ることはできませんでした。
4.5. 「リンゴの逸話」と万有引力の発見
ニュートンの最も有名な逸話の一つに、彼がリンゴの落ちるのを見て万有引力の法則を思いついたという話があります。実際には、この話はニュートンの友人であるウィリアム・ステュークリが後に語ったものであり、ニュートン自身が直接記録に残したものではありません。
しかし、この逸話には一定の真実が含まれていると考えられています。ニュートンは、地球上の物体が地面に落ちるのと、月が地球を回る運動が同じ法則で説明できるのではないかと考えました。そして、彼は数学的な検証を重ね、万有引力の法則を確立しました。この法則は、その後の天文学や物理学の発展に決定的な影響を与えました。
4.6. 晩年の孤独と王立協会での権力
ニュートンは1703年に王立協会の会長に就任し、その後24年間その地位にありました。しかし、彼の晩年は科学研究よりも政治的な活動に傾きました。彼は王立協会で強い権力を握り、自分に反対する者を排除するなど、独裁的な態度を取ることがありました。
また、彼は1696年にイギリス造幣局の長官となり、貨幣の改鋳を指揮しました。この役職では、経済的な不正を取り締まるために厳格な政策を実施し、偽造貨幣を作った者に対しては厳しい処罰を科しました。
1727年にニュートンは死去し、ウェストミンスター寺院に埋葬されました。彼は生涯独身を貫き、個人的な交友関係も限られていたといわれています。
まとめ
今回は『天才物理学者ニュートンの生涯と功績』について紹介しました。
ニュートンは、物理学・数学・天文学など多くの分野で画期的な発見をした科学史上の偉人です。
彼の理論はその後の科学者たちに大きな影響を与え、アインシュタインの相対性理論にもつながっています。
ほかにも数学の偉人や面白い数学の世界についての記事を書いているので、あわせて読んでみてください〜!!
数学の世界に革命をもたらした男、レオンハルト・オイラー。 彼の名前を知らなくても、数学の授業で見た記号 e、i、π、Σ、f(x)…これらの多くは、彼が広めたものです。 解析学、数論、グラフ理論、物理学に至るまで、彼の業績は現代の[…]
みなさん、ひまわりの花を見たことはありますか? ひまわりの中心にあるたくさんの種や、松ぼっくりのうろこ、巻貝のぐるぐるした形…。 実は、自然の中には「フィボナッチ数列」という不思議なルールが隠れているんです! 今回は『自然の中で見られるフィ[…]