数学の世界に革命をもたらした男、レオンハルト・オイラー。
彼の名前を知らなくても、数学の授業で見た記号 e、i、π、Σ、f(x)…これらの多くは、彼が広めたものです。
解析学、数論、グラフ理論、物理学に至るまで、彼の業績は現代のあらゆる数学に息づいています。
今回は『天才数学者オイラーの生涯や逸話・エピソード』などを詳しく紹介します!
彼は片目を失明し、やがて完全に視力を失ったにも関わらず、生涯で 800本以上の論文 を執筆しました。
1. レオンハルト・オイラーの生涯と経歴
「レオンハルト・オイラー(1707–1783)」は、スイス出身の数学者で、解析学、数論、グラフ理論など多くの分野に革新をもたらしました。
バーゼル大学で学び、ロシアとプロイセンの科学アカデミーで活躍。視力を失っても数学研究を続け、生涯で多くの論文を執筆しました。
1.1 幼少期と教育
レオンハルト・オイラーは 1707年4月15日、スイスのバーゼルで生まれました。父親のパウル・オイラーはプロテスタントの牧師であり、母親のマルグレート・ブルックナーは裕福な家庭の出身でした。オイラー家は数学に親しんでおり、父パウルはヨハン・ベルヌーイ(当時の著名な数学者)の友人でした。
若い頃、オイラーはバーゼル大学に入学し、最初は父親の希望で神学を学ぶ予定でした。しかし、数学の才能を見抜いたヨハン・ベルヌーイの勧めで数学の道に進むことになります。バーゼル大学では、13歳で入学し、16歳で修士号を取得するなど、卓越した学業成績を収めました。
1.2 サンクトペテルブルク時代(1727–1741)
1727年(20歳) のとき、オイラーはロシアのサンクトペテルブルク科学アカデミーに招かれます。これは、ピョートル大帝が設立した学術機関であり、ロシアの科学の発展を目的としていました。当初は医学・生理学部門で働くことを命じられましたが、数学に才能を発揮し、すぐに数学部門に移ることになります。
<サンクトペテルブルク時代の主な業績>
- バーゼル問題の解決(1734年)
- 三角関数の記号(sin, cos, tan)を統一
- 流体力学の基礎を築く
1733年、オイラーは科学アカデミーの物理学教授に任命され、同時期にカタリーナ・グゼルと結婚しました。彼らは13人の子供をもうけましたが、生き延びたのはわずか5人でした。
1.3 ベルリン時代(1741–1766)
1741年、オイラーはロシアを離れ、プロイセンのベルリン科学アカデミーに招かれました。これはフリードリヒ大王の要請によるもので、オイラーはベルリンで数学と物理学の研究を続けました。
<ベルリン時代の主な業績>
- オイラーの公式(e^(ix) = cos(x) + i sin(x))の発表
- オイラー多面体定理の発見
- 『数学書の書き方』という本を執筆(現代の数学教育の基礎となる)
この時期、オイラーは数学だけでなく、物理学や工学の分野でも重要な貢献をしました。例えば、オイラー方程式(流体力学)やオイラー角(剛体の回転運動)などがあります。
1.4 再びサンクトペテルブルクへ(1766–1783)
1766年、オイラーはプロイセンを離れ、再びサンクトペテルブルク科学アカデミーに戻ります。このとき、ロシアのエカチェリーナ2世がオイラーの研究を支援し、高い給与と研究環境を提供しました。しかし、オイラーの健康状態は次第に悪化していきました。
<オイラーの健康問題>
・右目を失明(1738年):若い頃から視力が悪化し、1738年に右目が見えなくなった。
・両目とも失明(1771年):白内障により完全に視力を失った。
しかし、驚くべきことに、オイラーは完全に視力を失った後も研究を続けました。計算や数学的思考は記憶力に頼り、弟子たちが口述筆記を行う形で研究成果を発表し続けました。
<晩年の業績>
- オイラーのトーシェント関数の発見
- オイラーの角運動量方程式の発表
- ケーニヒスベルクの橋の問題の解決(グラフ理論の発端)
1.5 オイラーの死と遺産
オイラーは 1783年9月18日、76歳で脳卒中により亡くなりました。亡くなるその日まで数学の研究を続けており、死の直前まで計算を行っていたと言われています。
オイラーの死後、彼の未発表の論文や書籍がサンクトペテルブルク科学アカデミーによって整理され、50年以上にわたって発表され続けました。彼の業績はあまりにも膨大であり、現在でもオイラー全集として数学界で研究されています。
2.オイラーが残した数学的な功績
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レオンハルト・オイラーが残した数学的な功績について紹介します。
『オイラーの数学』の詳しい説明は、この記事に書いています!↓
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1.解析学への貢献
オイラーは解析学の基礎を築いた数学者の一人であり、特に無限級数や関数論に関して多くの重要な業績を残しました。
1.1.オイラーの公式
オイラーは、指数関数と三角関数を結びつける次の美しい公式を発見しました。
e^(ix) = cos(x) + i sin(x)
この公式は、複素解析、フーリエ解析、量子力学、電気工学などの多くの分野で基本的な役割を果たします。
また、x = π(パイ) を代入すると、「e^(iπ) + 1 = 0」という オイラーの等式 が得られます。この等式は、「数学で最も美しい式」とも称され、数学の基本的な定数 e, i, π(パイ), 1, 0 を結びつける極めて重要な関係式です。
1.2. 無限級数の研究
オイラーは無限級数の収束性について深く研究し、以下のような公式を発見しました。
1 + 1/4 + 1/9 + 1/16 + 1/25 + … = π^2 / 6
これは「バーゼル問題」と呼ばれ、17世紀の数学者たちが解決できなかった問題をオイラーが解決しました。この研究は、リーマンゼータ関数や解析的整数論の基礎となりました。
2.数論への影響
オイラーは、数論にも重要な貢献をしました。彼の研究は、フェルマー、ガウス、リーマンなどの後世の数学者にも大きな影響を与えました。
2.1 オイラーのトーシェント関数
オイラーは、ある整数 n に対し、それ以下の自然数のうち n と互いに素な数の個数を表す関数φ(n)を定義しました。これは現在、オイラーのトーシェント関数として知られており、数論や暗号理論(RSA暗号など)で重要な役割を果たします。
2.2 オイラーの定理
フェルマーの小定理を一般化し、次のような定理を証明しました。
a^(φ(n)) ≡ 1 (mod n)
これは、RSA暗号の理論的な基盤にもなっています。
3.グラフ理論とトポロジーの発展
オイラーは、グラフ理論とトポロジーの礎を築いた数学者でもあります。
ケーニヒスベルクの橋の問題
オイラーは、「ケーニヒスベルクの橋の問題」を解決し、グラフ理論が誕生しました。
オイラーの多面体定理
オイラーは、任意の凸多面体について、頂点数 V、辺数 E、面数 F の間に
V – E + F = 2
という関係が成り立つことを証明しました。この定理は、トポロジーの基礎として現在も重要な役割を果たしています。
『オイラーが残した数学的な功績』については、ここで詳しく解説をしています!↓
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4.物理学・工学への影響
オイラーの数学的手法は、物理学や工学の発展にも大きな影響を与えました。
4.1 オイラー方程式(流体力学)
オイラーは、流体の運動を記述する微分方程式(オイラー方程式)を導出しました。
∂v/∂t + (v・∇)v = – (1/ρ) ∇p + f
これは、流体力学の基礎となり、航空力学、気象学、海洋学などに応用されています。
4.2 剛体の回転運動
オイラーは、剛体の回転運動を記述するオイラーの運動方程式を導出し、これが宇宙工学や機械工学に応用されています。
オイラーの業績は、「数学の王は解析であり、オイラーはその王の王である」(ラプラス)という言葉に象徴されるように、数学史において最も偉大なものの一つとして評価されています。
3.オイラーに関する有名な言葉
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オイラーに関する有名な言葉はいくつかありますが、特に有名なものを詳しく解説します。
1. 「数学の王は解析であり、オイラーはその王の王である。」
(“The king of mathematics is analysis, and Euler is the king of analysis.”)
– ピエール=シモン・ラプラス(Pierre-Simon Laplace)
ピエール=シモン・ラプラス(1749-1827)は、天文学や確率論の分野で多大な業績を残したフランスの数学者です。彼はオイラーの功績を極めて高く評価し、特に解析学(微分積分学や無限級数を含む)の分野におけるオイラーの影響の大きさをこの言葉で表現しました。
解析学はニュートンとライプニッツによって確立されましたが、それを大幅に発展させたのがオイラーです。
オイラーは無限級数、微分方程式、関数論など、解析学のほぼすべての分野において基本的な定理や手法を確立しました。
2. 「オイラーは我々に新しい分析の方法を教えた。我々は彼の弟子である。」
(“Euler has taught us a new way of analysis. We are his disciples.”)
– ジョゼフ=ルイ・ラグランジュ(Joseph-Louis Lagrange)
ジョゼフ=ルイ・ラグランジュ(1736-1813)は、フランスの数学者・力学者であり、変分法や解析力学の分野で偉大な業績を残しました。
<この言葉の背景>
ラグランジュは数学的厳密性を重視した数学者であり、後に「ラグランジュの解析力学」などを確立しました。
しかし、彼自身もオイラーの研究に強い影響を受けており、「解析学の進歩はオイラーの方法によってもたらされた」と認めています。
実際にラグランジュの初期の研究は、オイラーの手法を受け継ぎながら発展させたものが多いです。
この言葉は、オイラーが数学者たちに新たな解析学の視点をもたらしたことを象徴しています。
3. 「読め、オイラーを読め。彼こそが我々すべての師である。」
(“Read Euler, read Euler. He is the master of us all.”)
– ピエール=シモン・ラプラス
この言葉もラプラスによるものですが、特にオイラーの研究を学ぶことの重要性を強調したものです。
18世紀の数学者の多くは、オイラーの研究成果に基づいて数学を学び、発展させました。
彼の研究は極めて広範囲に及び、解析学、数論、流体力学、天文学など多くの分野に影響を与えました。
そのため、ラプラスは数学を学ぶ者に「まずオイラーの研究を読むべきだ」と強く勧めています。
現代でも、オイラーの論文は数学の基礎を理解するうえで極めて重要であり、多くの研究者がオイラーの業績を参考にしています。
4. 「オイラーの頭脳は、我々のものとは全く異なる種類のものだった。」
(“Euler’s mind was of a completely different kind than ours.”)
– アンドレ=マリ・アンペール(André-Marie Ampère)
アンドレ=マリ・アンペール(1775-1836)は、フランスの物理学者・数学者であり、電磁気学の基礎を築いた人物です。
オイラーは非常に高い計算能力と記憶力を持っており、多くの数学者が驚嘆しました。
彼は視力を失った後も驚異的なスピードで数学論文を書き続けたため、多くの研究者が「人間離れした数学的才能」を感じていました。
彼の計算能力は、現代のコンピュータの計算力に匹敵するとさえ言われています。
アンペールは、オイラーの知性を「常人とは異なるレベルのもの」として称賛しています。
これらの言葉は、オイラーがいかに偉大な数学者であったかを物語っています。現代でもオイラーの研究は多くの分野で応用されており、「数学の王」としての評価は揺るぎないものとなっています。
4.オイラーに関する面白い逸話やエピソード
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オイラーに関する逸話やエピソードは数多くあります。その中でも特に興味深いものを紹介します。
4.1. 圧倒的な計算能力と記憶力
オイラーは驚異的な計算能力と記憶力を持っていたことで知られています。なんと、暗算で6桁の計算を行ったのです。
ある日、ロシアの科学アカデミーで、オイラーと他の数学者たちが会話していた際、ある数学者が「7桁の数字を自乗するとどうなるか」という問題を出しました。オイラーは暗算で即座に答えを出し、それが正しいことが確認されました。彼の計算能力の高さは、多くの数学者を驚愕させました。
オイラーは『アエネーイス』の全巻を暗記していたと言われています。また、彼は円周率 πの小数点以下の数百桁を記憶していたとも伝えられています。
4.2. 失明しても数学研究を続けた
オイラーは晩年に両目の視力を失いましたが、それでも数学研究を続けました。
「もう目が見えなくなったが、少なくとも頭の中では数学が見える」
1766年、オイラーは白内障が悪化し、ついに完全に失明しました。しかし、彼は計算や論文執筆をやめることなく、口述筆記によって研究を続けました。弟子や秘書に数学の内容を話し、それを記録させることで、彼は視力を失ってからも1万ページ以上の数学論文を書いたと言われています。
この驚異的な執念と能力に対し、オイラー自身は次のように語ったとされています。
「私は目を失ったが、頭の中の数学は何も失われていない。」
4.3.ケーニヒスベルクの橋の問題
オイラーは、「ケーニヒスベルクの橋の問題」を解決したことでグラフ理論の基礎を築きました。
18世紀、当時のプロイセン領ケーニヒスベルク(現在のロシア・カリーニングラード)には、プレーゲル川に架かる7つの橋がありました。町の人々は「すべての橋を一度だけ渡って元の場所に戻れるか?」という問題を楽しんでいました。しかし、誰も解決策を見つけることができませんでした。
この問題に興味を持ったオイラーは、橋と陸地を「点」と「線」で表すという画期的な方法を考案し、「そのような道順は存在しない」ことを数学的に証明しました。これが後のグラフ理論の始まりとなり、現在のネットワーク理論にも影響を与えています。
4.4.1日14時間の研究
オイラーは非常に勤勉な数学者であり、毎日14時間以上数学の研究をしていたと言われています。
「オイラーは数学を考えながら眠る」
オイラーの同僚や家族は、彼が朝から晩まで数学に没頭していたと証言しています。彼の生活は規則正しく、毎朝決まった時間に研究を始め、夜まで計算を続けました。
また、彼は「数学を考えながら眠り、目が覚めても数学を考えている」と言われるほど、数学と一体化した生活を送っていました。
4.5.オイラーの最後の言葉
オイラーは1783年9月18日に亡くなりましたが、亡くなる直前まで数学をしていたと言われています。
「今日、私はまだ多くのことを計算できた」
オイラーは亡くなる日も数学の計算をしており、彼の最後の日についてはこう記録されています。
- その日の朝、数学の研究を行い、弟子と議論をした。
- 昼食後、孫と遊びながら天文学について話をした。
- 午後、突然の脳卒中に倒れ、数時間後に亡くなった。
彼の最後の言葉は記録に残っていませんが、オイラーの伝記作家は「彼は死の瞬間まで計算をしていた」と述べています。
オイラーは単なる数学者ではなく、驚異的な記憶力、計算能力、そして数学に対する情熱を持った天才でした。彼にまつわる逸話は数多くあり、どれも彼の非凡な才能と勤勉さを物語っています。
オイラーはまさに「数学の王」と呼ばれるにふさわしい人物でした。
5.レオンハルト・オイラーに関する年表
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幼少期・教育
1707年4月15日: スイスのバーゼルで生まれる
1720年(13歳): バーゼル大学に入学
1723年(16歳): 学士号を取得
1726年(19歳): 修士論文「音の伝播について(De Sono)」を執筆
1727年(20歳): サンクトペテルブルクのロシア科学アカデミーに招聘される
ロシア時代(第1期, 1727–1741)
1727年(20歳): サンクトペテルブルクに到着し、医学・生理学部門の助手として勤務
1730年(23歳): 物理・数学部門の准教授に昇進
1733年(26歳): 数学教授に昇進。カタリーナ・ゲルディンと結婚
1736年(29歳): 「力学論(Mechanica)」を出版し、解析力学の基礎を築く
1738年(31歳): 重病を患い、右目の視力を失う
1741年(34歳): フリードリヒ大王に招かれ、プロイセンのベルリン科学アカデミーに移籍
ベルリン時代(1741–1766)
1744年(37歳): 「変分法の基礎(Methodus Inveniendi Lineas Curvas)」を出版し、変分法の発展に貢献
1748年(41歳): 「無限解析入門(Introductio in analysin infinitorum)」を出版し、解析学の体系化を進める
1755年(48歳): 「微分学教程(Institutiones Calculi Differentialis)」を出版
1762年(55歳): 妻カタリーナ・ゲルディンが死去
1766年(59歳): ロシアのエカチェリーナ2世の招きで、再びサンクトペテルブルクへ戻る
ロシア時代(第2期, 1766–1783)
1766年(59歳): ロシア科学アカデミーの数学部門の責任者となる
1766年(59歳): 左目の白内障手術を受けるが、手術後に失明
1771年(64歳): サンクトペテルブルクの大火災で家を失うが、家族は無事
1773年(66歳): 再婚(元妻の親友サロメ・アビゲイルと)
1775年(68歳): 完全失明しながらも数学研究を続け、弟子に口述筆記させる
1783年9月18日(76歳): サンクトペテルブルクで死去
まとめ
オイラーの生涯は、数学への情熱と探求心に満ちたものでした。私たちが日常的に使う数式や概念の多くは、彼の手によって生まれたのです。
数学には、オイラーのような天才たちが積み重ねてきた無数の物語があります。彼らの挑戦と発見は、どれも魅力的で奥深いものばかりです。
ほかにも、『面白い数学の世界や数学者』に関する記事を書いているので、ぜひ読んで楽しんでください!
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